宝石のような絵本☆「ピーターラビットのおはなし」
にほんブログ村
読んであげるなら 5、6歳~
(本文の書き出しは、こんな感じ・・・)
あるところに、4ひきの 小さなうさぎがいました。
なまえは、
フロプシーに
モプシーに
カトンテールに
ピーターといいました。
小さなうさぎたちは おかあさんといっしょに 大きなもみの木のしたの すなのあなのなかにすんでいました。
あるあさ おかあさんが いいました。
「さあ おまえたち、野はらか 森のみちであそんでおいで。でも おひゃくしょうのマクレガーさんとこの はたけにだけは いっていけませんよ。おまえたちのおとうさんは、あそこで じこにあって、マクレガーさんのおくさんに にくのパイにされてしまったんです」
* * * * *
(以下、あらすじです)
それから買い物に出掛けたお母さん。
いい子のフロプシーとモプシーとカトンテールは、森で黒いちご摘み。
けれど、たいへんないたずらっ子のピーターは、マクレガーさんの畑へ一目散に駆けつけて・・・・・
* * * * *
石井桃子さん訳のうさぎの絵本。
haneちゃんは今でも大好きですが、2~3歳の頃は「うさこちゃん」に嵌っていました。
この、うさこちゃんの訳は石井桃子さんで、この真っ白いうさぎに「うさこちゃん」という名訳を付けたのも石井桃子さん。
うさこちゃんのもともとの名まえはオランダ語でナインチェ・プラウス。
ナインチェは「うさちゃん」、プラウスは「ふわふわ」という意味ですから、ふわふわのうさちゃんですね(^^)
福音館から出ているのが「うさこちゃん」です。
そして石井桃子さんのあと、松岡享子さんが訳されています。
ミッフィーという名まえは、うさこちゃんの絵本がオランダ語から英語に翻訳されたときにつけられた名まえで、講談社から出ているのが「ミッフィー」で、角野栄子さんが訳されています。
が、三人の訳を読み比べると、石井桃子さんのそれは抜群で、心地良すぎます。
やっぱり、うさこちゃんはうさこちゃんで、ミッフィーではない・・・・と私は思ってしまう。
そして先日までは「グレイラビットのおはなし」を堪能し、
今度は「ピーターラビットのおはなし」に。
石井桃子さんは、この本の訳がとても難しいものだったと振り返っていらっしゃいます。
「ポターの文章は硬質なので、私には手ごわかったんです。
たとえば、アリソン・アトリーの『グレイラビットのおはなし』を訳したときは、ポターの文章に対するように、戦うという気持ちはなくて入っていけたんです。
嫌だから戦うのではなくて、なんとかしてこの人の書いたものを損ないわないようにしょうとすると、なかりの努力が必要でした。」
イギリスの詩人メイスフィールド曰く、ポターの簡潔で自然な短い文章を、
「それはイギリスの散文の宝石だ」と表現。
―――「絵本と子ども」福音館書店より―――
この本の中で瀬田貞二さんは、
「絵本のよい絵とは、そのよい物語にぴったりかなっていて、ぬきさしならぬこと。
本は一つの産物です。
絵と文とが全体として考えられ、一つのものとして作られるもの、絵と文が不可分なものは、いうまでもありません。
だから、作者、画家がひとりのときに、すばらしい絵本が生まれることが多いのですし、共同作業の場合、夫婦や兄弟が画文分担するときに傑作がしばしば生まれるわけです。」
と仰っています。
まさに「ピーターラビットのおはなし」はこの一つ!
そこが「グレイ・ラビットのおはなし」との違いかもしれません。
石井桃子さんは、ポターの「ピーターラビットのえほん」について、こう語っています。
「子どもに媚びないで、突き放して書いてあるところに感銘を受けました。
動物を生物学的に正しく、そして物事を客観的に書いてあって、それを子どもがそれ程好きなのが、はじめは、分からない気持ちもありました。
でも、じっくり読んでいくうちに、ポターが友人の子どもに書いた手紙がもとでしょう。
お話を語り、その中にユーモアや皮肉もたっぷり含まれていて、それがきびきびした散文で書かれていることが分かってきたんです。
読んでいるとクスクス笑えてしまうようなところがあるんですね。
大人と子どもと相通じるところで、じつにイ面白い勝負をやっているような気がしました。
『ピーターラビット』を読み終わった後に、楽しかった気持ちと、怖かった、という感じが残るかもしれませんね。
でも、それは子どもが現実の人生を送っていく上で必要な、心の経験じゃないでしょうか。」
「小さな宝石」のようなこお話を暫く堪能する日が続きそうです。
21冊もありますからね(^^;)
箱入りのセットで欲しいが、お高いです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
* * * * *
ランキングに参加していま~す
お帰りの際に、ポチッとよろしく~!!
↓ ↓ ↓
にほんブログ村